100.001【第一話】

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第一章

 

―― 癌です

 

「膵臓から、肝臓、リンパ節、腰骨への転移も見られます。いわゆるステージⅣのB期、であると……」

人は平等である。生を受け、死ぬ。原因は数多あれ、終末は等しく同様だ。変えられぬ万物の理を受け入れ、この世を去っていく。

「――治療は。まだ方法はあるのだろう」

死を前に、人は無力である。一時の回復はあれど、最期の時は必ず訪れる。時の流れには抗えない。いかなる力を持とうと、変わることはない。

「今後は投薬を主に治療を進めていきます。我が病院の全勢力を持って、誠心誠意あたらせていただきます」

はぐらかした医師の指先は無様に震えていた。絶対的強者の前では、道の第一人者すら言葉を濁す。

「手術は、……無理なのか。私は、あとどれだけ生きられる」

握力の落ちた掌が白衣の裾を握る。いかなる財力を誇ろうとも、その手先に残された力は微かなものだった。

「五年生存率はおよそ数パーセント。しかしながら転移の状況から申しますと……、長くて一年、短ければ、……明日とも」

世を謳歌する者は少なからず存在する。想像し得る多くを手にする者もいる。富や名声、力。それでもなお、永遠の生命だけは手に入らない。

人は平等である。家族を得て、三人の息子娘。半月前には孫も生まれた。これ以上、なにを望む。それでも満たされぬものが確かにある。

「いつまで、私でいられる。あなたの私感でいい、答えなさい」

 

「―― 半年 」
 
 

 

救急車両のかき鳴らす音はうるさく、女の耳に残った。意識はないものの、奥に反響した雑音が無闇に頭蓋骨を内側から叩き、脳髄から破裂させんと揺らし続けた。ストレッチャーの転がる金属音と、医師と看護師の相談する音色が廊下に漏れ、場の緊張感は否が応にも高まった。掛け声とともに手術台へ移された女は、まるですやすやと眠る乙女のように、この世の最期を想像した。女の血で汚れた安物のシャツを裂いた医師は、輸血用の血を受け取りながら患部を見た。切れた手首の傷は深いものの、電子機器の知らせる図から、どうやら命まで取るまいと安堵する。手術中を示す電飾に光が灯り、静けさを取り戻した廊下は人影もない。女を案ずる者も、ましてや影すらない。言うまでもなく、女は一人だった――

***

女が目を覚ましたのは、昼の二時を過ぎた頃だった。ブラインドの隙間から差した熱が、女の指先を照らしていた。記憶のない女は、眼球だけで見渡し、そこがどこかを想像する。なぜ私はこんな場所で寝ているのか。微かに働く頭を揺らせば、繋がれた点滴の管が目に入った。倒れでもしたかと勝手な考えを巡らせる間もなく、ベッドに固定された左腕に気づき、ああと現実に引き戻される。

“また、生きてしまった”。それだけは理解できた。水溜みずため未来みらいと書かれた名を恨めしく思いながら、身を起こそうと試みる。しかし血の足りない身体は動かず、数ミリ浮いた頭も、すぐに枕でバウンドした。

浴室で手首を切ったまでの記憶はあった。ただその後の記憶はなく、未来はなぜ生きているかを想像した。人を遠ざけ生きてきた未来に友人などいない。可能性があるとすれば、金を得る手段として利用した関係者だけだった。

薄いカーテンで仕切られた空間は狭く、時折聞こえる咳払いから、大部屋であるのがわかった。未来は頭上にぶら下がったナースコールのボタンを押した。しばらくすると女の看護師が現れ、医師を呼ぶと出て行った。また漠然と一人残され、未来はこれからの想像を繰り返した。その間に現れた頬のこけた男の医師は、手を掛けさせやがってという蔑み混じりの眼を向け、いい加減に患部を見るなり、すぐに退院できると告げる。そうして医師が病室を出るなり、さきの看護師が代弁を始める。出血は多かったものの命に別状はなく、体力が戻り次第、退院手続きをしてほしいというものだった。国内屈指の大病院は、他から転院を望む者も多い。自死を選ぶような輩は早く出て行けと読み取った未来は、わかりましたとだけ簡素に答えた。

脱力し横になり、未来は格子状に彩られた天井を見つめた。うねうねと幾何学な模様は、さも未来の脳内のようで、この上なく腹が立った。薬がきれ、手首の傷が痛み始めた。こんなことなら、もう二倍切っておけばよかった。左手首ごと切り落としておけば、くだらない目にも合わなかったと全身が怒りで震えた。日が落ち、夜を迎えれば、煩わしい病室も静けさを取り戻す。隣に寝ている誰かのイヤホンから漏れる音を無意識に拾うも、未来の脳裏にあるのは自らが死に眠る姿だけだった。

乱雑に扉が開いた。とうに面会の時間は過ぎている。鳴らす靴音は品性の欠片もなく、酷く不快だった。未来には覚えがあった。むしろ、そんな音を鳴らす人物は一人しか思い当たらない。

「みーらーいー、ここかあー」

痰がからみ聞き取りにくい男の声と、入口近くのベッドカーテンを開ける音が響いた。「なんですか」と怯えた声を出す誰かを無視した男は、カーテンを一つ一つ確実に開け、未来のいる場所へ近づいた。そうして残されたカーテンをレールから剥ぎ取り、舌打ちを伴い未来へ投げつけた。

「はいはいはい、未来ちゃん、みーっけ」

返答の間もなく未来の髪を掴んだ男は、固定された腕のことも関係なく女を引きずり連れ出そうとする。「ちょっと」と目を見開いた同室の誰かが手を伸ばすも、男は躊躇なく、誰かの顔面を足蹴にした。

「なーに死のうとしちゃってるわけ。お前、立場わかってる、ん?」

ベッドに固定された腕が外れず、面倒くさそうに頭を掻いた男は、ぺたんとベッド脇に座り込んだ未来の首を掴み数度頬を張った。そうして舌の中央で未来の顎を舐め、耳元で「仕事残ってんだろ?」と質問をした。

騒ぎを聞きつけ、看護師が病室に駆け込んだ。冷めた眼で振り返った男は、「ちぇ」とこぼし、「明日迎えにくるからな」と下品な笑みを浮かべ、怯える看護師の指示に従い出て行った。殴られた病室の誰かと看護師連中が病室から消えるなり、遮るもののない空間の一角に、全ての視線が集中した。手錠をかけられた罪人の如く力なく俯き座った未来の姿を、無言の同室患者たちが見つめていた。ただし、それは未来を案ずるものでなく、面倒事を持ち込んだ者へ向けられる明らかな不審だった。

***

誰もいなくなったベッド横の窓を開けた未来は、終わりつつある夏の熱で、少しだけ腫れた頬を撫でた。区切る必要もない、ベッドだけが転がった病室は異様に広く、くすんだ未来の心を覆い隠した。消灯時刻を過ぎ、院内は静まり返っていた。時折聞こえるのは夜勤の看護師が奏でる足音のみで、未来は迷いなく裸足のまま病室を出る。苦しむ間もなく、一瞬がいい。不自由な身体で首を吊っても、死ねる保証はない。簡単な方法はなんだ。未来の足は窓外に見える建物の屋上へと動き出していた。車椅子用のスロープを利用し、すり足で上がった視線の先に、金属製の重々しい扉が現れた。薄暗い中を手探り近づき覗けば、扉に「夜間施錠中」の貼紙があった。それもそうかと気もなしにノブを回してみると、ガコンと音をたて扉がスライドした。”なんだ、開いてるじゃないか”と身を乗り出した未来は、前のめりになった身体を支えられず、屋上の踊り場へ転がり、そのまま仰向けに倒れた。

星空を見るなどいつぶりだろう。未来は秋空に浮かんだカシオペヤの五つ星をぼんやりと眺めながら、痛み始めた左手首を地面へ叩きつけた。

「そこ、閉めてもらえんかな」

不意に誰かが未来に話しかけた。視線だけを漂わせば、屋上端のベンチに影があった。返事をするでもなく、手を伸ばし重い扉を閉めた未来は、切れかけた死への興味を繋ぎ止めるよう、影とは反対へ向かった。喫煙所として設けられた一メートルほどの四角い灰皿とベンチが置かれた一角で、未来は身の丈より少し高いフェンスのてっぺんを見た。乗り越えるには工夫がいる。ならばとベンチに灰皿の筒を重ね、フェンスに身を預けながらよじ登った。しかし死角だったフェンス裏には自殺防止ネットが無数に張られ、未来はそこに安全な死がないことを悟った。

「死なさるのか、若いの」

さきと同じ声だった。見下ろせば、七、八十の老人が未来を見上げていた。無視した未来は、遠のいた死の背中を追いかける気力もなく、老人の座るベンチの隣に腰掛けた。痩せて細くなった未来の二の腕に触れた老人は、「ちゃんと食べているのか」と訊く。未来は瞬き一つなく、ただ呆然と、眼下に浮かぶ東京の風景を見つめ涙を流した。

「涙は出るか。”まとも”だの」

癪に障ることもなく、未来は言葉を受け流した。

「足掻く者もいれば、急ぐ者もいる。面白いな、人は」

独り言を呟く老人は、遠く光るネオンを見つめながら、「少し話してもいいかい」と訊く。未来はまた返事もせず、そこに留まった。

「人は生き死にを決められる。しかし制限はある。永遠に生きられる者はおらんし、まして変えられもしない。自由なようで、実に不自由だ」

真横を一瞥した未来の耳に、老人の言葉など入るはずもない。頭にあるのは虚無感と失望、そして動かない身体への苛立ち。そこに男の言葉が入り込む隙間など有りはしない。男は未来の手元を見下ろし、「自死か」と漏らした。そうして品定めするように、足先から頭の頂点までを眺め、そのまま視線を遠い宙へ浮かせた。

「人は傲慢な生き物でな、全てを手にしたとしても、なにかが欲しいと願う。金、人、名声、権力、家族、愛人、子、最近では孫もできた。しかし、手にしても、また欲しいものが現れる。欲深い者ほど、際限なく、ただ永遠と手にしたいと願うものだ」

永遠という耳障りな台詞が未来の微かに残った琴線に触れる。

「いらないよ、永遠なんて」という未来の言葉に、老人はただ首を横に振った。

「半年もすれば、私は消えてなくなる。つまらないとは思わないか、生きた証が消えるというのは」

「生きてる意味もない人だっているよ、私みたいに」

「確かに。根っこから頭の先まで腐りきった屑だの」

「否定してくれないんだ。正直だね、お爺ちゃん」

「嘘はなにも生まん。生まれるのは、それこそあんたみたいな屑だ」

「そうだね。言えてる」

黙った老人は、しばし遠方を見つめたまま掠れた喉でヒューヒューと呼吸を繰り返した。肺や喉を患っているのは一目瞭然も、あえて未来が触れることはなかった。

「証が欲しいんだ」

「あかし?」

「この世に生きたという証だ」

「家族、いるんでしょ」

「確かに、血は紡がれた歴史かもしれん。しかしそれは私が生きた証ではない。万人を一括りにして語られるものだ」

「じゃあさ、総理大臣にでもなったら」

「国の成り立ちも知らんのか。なれるものなら、なってみたいものよ」

「だったらさ、とうきょうごと破壊して火の海にしてよ。私も死ねるし」

「そんなもの証ではない。未来永劫、屑のレッテルを貼られる愚か者の証明だ」

「わがままだね、お爺ちゃん」

わがままという言葉に目を丸くした老人は、視線を漂わせたまませせら笑った。

「これからどうするんだい」

「死ぬよ。生きてても意味ないし」

「ここは駄目だろう。その様子じゃあ、退院も少し先だろて」

未来は周囲を見回し、自分のいる病棟より少しだけ高い遠くのマンションを指さす。「迷惑な話だの」という老人に難しい顔をしてみせ、「なら今度こそ、手首を切り落とすから」と飾り気もなく言った。

「理由は?」

「お金」

「金か、くだらん」

「ハハ、そんなこと初めて言われた」

よいしょと立ち上がり、未来は老人のように腰を叩き、「少し気が紛れた」と老人に会釈した。

「ナイフでも探すよ。お爺ちゃんには迷惑かけないからさ、黙っといて」

身体半分だけ振り返った老人は、未来を止めるでもなく女の背中を見つめていた。そうして屋上の扉に手をかけたところで、ぼそりと語りかけた。

「私があんたを買おう」

ぴたりと動きを止めた未来は、「なんだって?」と振り返った。

「十億であんたを買おう。だが一つ条件がある」

「お爺ちゃんさ、もういいよ、そんなの」

「使い道は自由にするといい。だが半年以内に”私が世に生きた証”を残しなさい。一分一秒待ちはしないよ」

「だからさ、お爺ちゃん。私ね、死ぬの」

「期間は半年。いいね?」

無表情。それ以上の表現がなかった。老人はそれだけ言い残し、また背を向け闇の奥に浮かぶ東京の街並みに見入っているようだった。未来はフケの溜まった頭をぼりぼりと掻き、どうせ死ぬのだからといい加減に「はいはい」と答えた。

扉を閉め、未来は首を捻った。薄れてしまった死への焦燥に疑問を持ちながら、「明るくなってから探そう」と階段を下った。



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